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2010年12月27日
2010年02月08日
小説が始まりました。
今李郎子の本が書き始まりました。
吉岡暁蔵氏に依る書き下ろしです。
2月には、3章が半ば過ぎにアップできるそうです。
10章まで書かれると言うことで大作になると思っています。
この小説で今までの萩の歴史が解明できる事でしょう。
今までの曖昧であった、萩焼の歴史が白日の下にさらされます。
今までの歴史家が解明できなかった史実を問われると言うことにもなるでしょう。
古代史は、遺物を元に解明されてきたのに500年前の歴史も書き物を意識的に書き残さず進めた産業があったから、その遺物とそこに存在した事件や人物を繋げていった結果できあがる実像を歴史と考えられ、それを元に書かれている小説です。
吉岡暁蔵氏に依る書き下ろしです。
2月には、3章が半ば過ぎにアップできるそうです。
10章まで書かれると言うことで大作になると思っています。
この小説で今までの萩の歴史が解明できる事でしょう。
今までの曖昧であった、萩焼の歴史が白日の下にさらされます。
今までの歴史家が解明できなかった史実を問われると言うことにもなるでしょう。
古代史は、遺物を元に解明されてきたのに500年前の歴史も書き物を意識的に書き残さず進めた産業があったから、その遺物とそこに存在した事件や人物を繋げていった結果できあがる実像を歴史と考えられ、それを元に書かれている小説です。
2009年12月15日
李郎子01
李郎子01
今文禄・慶長のの役で捕虜となって日本に来た陶工のことを調べています。
島根県津和野町に昔居た城主が、毛利軍の兵として蔚山の戦いで、捕虜にした李郎子のことです。
時の韓国は、朝鮮という国名でした。
だから、捕虜は、朝鮮人であると今まで考えられていましたが、調べてみるとこの戦いで兵隊は、ほとんど明軍の兵隊です。
蔚山の戦いが、1597年12月22日に始まりますが、その時10万の兵の内朝鮮兵は、1万5千にんと書かれています。真っ先に戦いを挑んできたのも明兵です。その捕虜の中に李郎子は居ました。
その時一族の者も捕虜となり日本に連れ帰られました。それが、忠臣蔵の四十七士に登場する武林唯七の爺さんです。彼の名は、武琳降と捕まったとき言っています。しかしそれは、本名ではなく中国の武士階級の意味であるところの武林から取った名で降は、浙江省にある杭州出身という意味だそうです。
後に本名は、孟二寛と名乗っています。
しかし李郎子は、本名も語られず存在が出てきたのは、島根県柿木村の吉賀記に江戸時代中期に書かれた文章のみです。
何故か、この武琳降のひ孫が、一族の内日本に来た李郎子がどのように暮らしているか尋ね来たことが書かれていて、そこで始めて登場することになったのです。155年経って後のことであります。
吉賀記に登場するきっかけは、武琳降のひ孫が山口県徳山の宿屋で病気になり三ヶ月間寝込んだことにより同宿の客商金屋金右衛門なる人が子細を聞き毛利藩に届け出たことにより、藩から、2人と路銀を付け江戸まで送り届けたことが書かれて、それを見た柿木村の役人が吉賀記に江戸時代中期書いたものです。
しかし、調べていくととんでもないまか不思議な事が分かってきました。
今文禄・慶長のの役で捕虜となって日本に来た陶工のことを調べています。
島根県津和野町に昔居た城主が、毛利軍の兵として蔚山の戦いで、捕虜にした李郎子のことです。
時の韓国は、朝鮮という国名でした。
だから、捕虜は、朝鮮人であると今まで考えられていましたが、調べてみるとこの戦いで兵隊は、ほとんど明軍の兵隊です。
蔚山の戦いが、1597年12月22日に始まりますが、その時10万の兵の内朝鮮兵は、1万5千にんと書かれています。真っ先に戦いを挑んできたのも明兵です。その捕虜の中に李郎子は居ました。
その時一族の者も捕虜となり日本に連れ帰られました。それが、忠臣蔵の四十七士に登場する武林唯七の爺さんです。彼の名は、武琳降と捕まったとき言っています。しかしそれは、本名ではなく中国の武士階級の意味であるところの武林から取った名で降は、浙江省にある杭州出身という意味だそうです。
後に本名は、孟二寛と名乗っています。
しかし李郎子は、本名も語られず存在が出てきたのは、島根県柿木村の吉賀記に江戸時代中期に書かれた文章のみです。
何故か、この武琳降のひ孫が、一族の内日本に来た李郎子がどのように暮らしているか尋ね来たことが書かれていて、そこで始めて登場することになったのです。155年経って後のことであります。
吉賀記に登場するきっかけは、武琳降のひ孫が山口県徳山の宿屋で病気になり三ヶ月間寝込んだことにより同宿の客商金屋金右衛門なる人が子細を聞き毛利藩に届け出たことにより、藩から、2人と路銀を付け江戸まで送り届けたことが書かれて、それを見た柿木村の役人が吉賀記に江戸時代中期書いたものです。
しかし、調べていくととんでもないまか不思議な事が分かってきました。
李郎子02
李郎子02
明軍尚武荊玠は、武林降を雇いその一族李郎子とともに朝鮮の役に参加したのですが、二人とも捕虜となり日本に連れてこられました。
特に李郎子は、杭州で民用窯に勤めていたのでしょう。
景徳鎮が焼き物が有名ですが、この時期ほとんど官用窯は、焼かれていなく民用が主体です。
しかし、銀が手に入る傭兵は魅力だったのか、兵隊になって朝鮮で日本軍と戦い捕虜となったのです。
この時捕まえたのが、毛利の配下津和野城主吉見広行の下で戦う三の瀬城主斉藤市郎左衞門です。
捕まえたのが、1597年12月22日で津和野に帰ったのが、1598年11月半ばのことです。
当然そこまで捕虜と一緒というわけではありませんから、捕虜は、後方に下げそこでいろいろ情報を取ったことでしょう。
武林降は、淺野長幸の配下、岡野の質となって忠臣蔵に登場する孫が出るほど丁重に武人として待遇されましたが、李郎子は、たまたま明の陶工であったため直ぐ広島の毛利に届けられたのでしょう。
斉藤市郎左衞門が杉ヶ峠に良い陶土があることを言ったのでしょうそこに窯を付き始めたのが丁度帰ってきた時期と考えられます。
しかし、斉藤市郎左衞門は、津和野城主に毒殺されたと地元の人が言っていましたから、李郎子に合うことなく死んだことでしょう。
窯が出来るまで一年半以上かかると陶工の先生が言っておられましたから、おそらく1600年の半ばまでには出来ていたことでしょう。
しかし、関ヶ原の戦いで、その地は、坂崎出羽の守の領地となったのです。
窯は出来たが、自分の領地ではなくなった毛利は、困ったことでしょう。
しかし、その後も窯焚きした形跡がありますから、色々な方法でそこで出来たのでしょう。
また、もの原から出る焼き損時の破片は、相当の量であることから、独り仕事とは考えることは出来ません。
また、17年後に坂崎出羽の守は、千姫事件で、切腹をしています。(一説には、配下の者が殺したと言う説あり)
その後が、亀井政矩が藩主となり津和野に入りました。
その時その杉ヶ峠一帯の山を大塚屋という大阪北浜の商人が借り受けています。
その証拠は、18年後に起こる塩治騒動で明らかになっています。
と言うことは、坂崎の時も大塚屋を使い借り受けていたと考えられます。
しかし、この塩治騒動の前3年ここに大きな事件が有ったことが考えられるのです。
明軍尚武荊玠は、武林降を雇いその一族李郎子とともに朝鮮の役に参加したのですが、二人とも捕虜となり日本に連れてこられました。
特に李郎子は、杭州で民用窯に勤めていたのでしょう。
景徳鎮が焼き物が有名ですが、この時期ほとんど官用窯は、焼かれていなく民用が主体です。
しかし、銀が手に入る傭兵は魅力だったのか、兵隊になって朝鮮で日本軍と戦い捕虜となったのです。
この時捕まえたのが、毛利の配下津和野城主吉見広行の下で戦う三の瀬城主斉藤市郎左衞門です。
捕まえたのが、1597年12月22日で津和野に帰ったのが、1598年11月半ばのことです。
当然そこまで捕虜と一緒というわけではありませんから、捕虜は、後方に下げそこでいろいろ情報を取ったことでしょう。
武林降は、淺野長幸の配下、岡野の質となって忠臣蔵に登場する孫が出るほど丁重に武人として待遇されましたが、李郎子は、たまたま明の陶工であったため直ぐ広島の毛利に届けられたのでしょう。
斉藤市郎左衞門が杉ヶ峠に良い陶土があることを言ったのでしょうそこに窯を付き始めたのが丁度帰ってきた時期と考えられます。
しかし、斉藤市郎左衞門は、津和野城主に毒殺されたと地元の人が言っていましたから、李郎子に合うことなく死んだことでしょう。
窯が出来るまで一年半以上かかると陶工の先生が言っておられましたから、おそらく1600年の半ばまでには出来ていたことでしょう。
しかし、関ヶ原の戦いで、その地は、坂崎出羽の守の領地となったのです。
窯は出来たが、自分の領地ではなくなった毛利は、困ったことでしょう。
しかし、その後も窯焚きした形跡がありますから、色々な方法でそこで出来たのでしょう。
また、もの原から出る焼き損時の破片は、相当の量であることから、独り仕事とは考えることは出来ません。
また、17年後に坂崎出羽の守は、千姫事件で、切腹をしています。(一説には、配下の者が殺したと言う説あり)
その後が、亀井政矩が藩主となり津和野に入りました。
その時その杉ヶ峠一帯の山を大塚屋という大阪北浜の商人が借り受けています。
その証拠は、18年後に起こる塩治騒動で明らかになっています。
と言うことは、坂崎の時も大塚屋を使い借り受けていたと考えられます。
しかし、この塩治騒動の前3年ここに大きな事件が有ったことが考えられるのです。
李郎子03
李郎子03
1635年亀井藩に於いてお家騒動が起こりその首謀者が、切腹させられている。
首謀者達は銅山が出来口屋が出来たとか、山の権利が大怏ョあるとかが幕府に届け出られている。
この騒動に幕府が出てきて事を納めているのである。
この塩治騒動は、多湖主水が幼君を担ぎ藩を私していると訴えたことに始まる。
柿木には治外法権が存在し、おかしいと探り始めたことにより起こった事件であろうかと思われる。
塩治方は、かなりこの窯のことが彼ら達の話題に上り、主水達が私腹を肥やしていると踏んだことであろう。
多湖主水は、初代藩主が大怏ョに貸し付けたた山と述べている。しかし藩主は、3年あまりで死んでいるのである。
亀井氏が津和野に来た時、藩の移動は物いりであることを見込んで、大怏ョを通じ毛利家永代家老益田元祥が手を回したことであろうと思われる。
商人から入り用の金子を借りるのは江戸時代当たり前の事である。
しかし亀井初代藩主は、三十才の若さで死に後の茲政は、三才で即位している。
この時代、十五才で元服していない嫡子は跡目を継ぐことなく改易となる時代であるが、亀井藩は、お取りつぶしになっていない。
三才の藩主の母親が、家康のひ孫であるからと言うことらしいが、家康は、家臣の子供を養女に仕立て親戚内に取り込み懐柔してきた人物であるから、それがそれほど重要視される事柄とは思えない。
三才で即位させても良かった理由があるのではないだろうか。
その茲政が十九才になった時起こった騒動が塩治騒動である。
この探索が、窯がある側にとって、用意成らざる事態となったことが考えられる。
今津和野町教育委員会で調べた限り、ここに銅山はなかった。
当時の地図があり、そのような形跡はない。
口屋も、銅山もこの窯のことを代わりに述べた事のように思われる。
塩治側は一様反論したのであろうが、幕府側は、それを毛利との問題にしたくなく反論がなかったことに落ち着かせたことが考えられる。
1635年亀井藩に於いてお家騒動が起こりその首謀者が、切腹させられている。
首謀者達は銅山が出来口屋が出来たとか、山の権利が大怏ョあるとかが幕府に届け出られている。
この騒動に幕府が出てきて事を納めているのである。
この塩治騒動は、多湖主水が幼君を担ぎ藩を私していると訴えたことに始まる。
柿木には治外法権が存在し、おかしいと探り始めたことにより起こった事件であろうかと思われる。
塩治方は、かなりこの窯のことが彼ら達の話題に上り、主水達が私腹を肥やしていると踏んだことであろう。
多湖主水は、初代藩主が大怏ョに貸し付けたた山と述べている。しかし藩主は、3年あまりで死んでいるのである。
亀井氏が津和野に来た時、藩の移動は物いりであることを見込んで、大怏ョを通じ毛利家永代家老益田元祥が手を回したことであろうと思われる。
商人から入り用の金子を借りるのは江戸時代当たり前の事である。
しかし亀井初代藩主は、三十才の若さで死に後の茲政は、三才で即位している。
この時代、十五才で元服していない嫡子は跡目を継ぐことなく改易となる時代であるが、亀井藩は、お取りつぶしになっていない。
三才の藩主の母親が、家康のひ孫であるからと言うことらしいが、家康は、家臣の子供を養女に仕立て親戚内に取り込み懐柔してきた人物であるから、それがそれほど重要視される事柄とは思えない。
三才で即位させても良かった理由があるのではないだろうか。
その茲政が十九才になった時起こった騒動が塩治騒動である。
この探索が、窯がある側にとって、用意成らざる事態となったことが考えられる。
今津和野町教育委員会で調べた限り、ここに銅山はなかった。
当時の地図があり、そのような形跡はない。
口屋も、銅山もこの窯のことを代わりに述べた事のように思われる。
塩治側は一様反論したのであろうが、幕府側は、それを毛利との問題にしたくなく反論がなかったことに落ち着かせたことが考えられる。
李郎子04
李郎子04
毛利に連れ帰られた李郎子は、その後柿木村で窯をつき焼き物を焼いているが、同時に萩で登場する名前は、赤穴内蔵助としてである。
何故か、この赤名内蔵助は、宍戸元続の質として連れ帰られた朝鮮の陶工の子供として萩に登場するのである。
毛利の焼き物に関して言えば、相当陶工を優遇したことが伺える。
李郎子は、赤名内蔵助として名家の名を与え萩に小丸山窯を与え、さも独立したかのように装っている。
しかし、実態は隠し窯の頭領として柿木と萩を往復している。
赤穴久内元寄は、宍戸元続の配下に属し吉見と共に蔚山に駐留した武将であり、1597年12月22日の戦いでは、斉藤一郎左衛門と共に戦った戦友である。
当然その時の捕虜のことも知っている中である。
その為に大組の赤名久内元寄を毛利輝元は1599年12月1日中川元任に名字改めを言い渡している。
中川は、江戸詰めの奉行と言うことになっているが、柿木に常に内蔵助と共に行動した人物であろう。
窯を焚くと言うことは、木を切り出し、それを割り1年は乾かさなければならない。
又、土を掘り出し水で精製し何度も何度も繰り返し純度の高い粘土を作り出さなければ焼き物は出来ないのであるから、そこに働く手元職人が必要になってくる。
おそらく初期は、萩の方から雇い入れたのであろうが、1617年の坂崎家の改易によりその家来が雇い入れられたと考えられる。
塩治騒動で、口屋(隠し関所)が椛谷に出来銅山が有ると言っていることがその証である。
何故か、椛谷には、津和野藩資料に銅山など無いからである。
これは、(幕府のねつ造を毛利にあえて知って居るぞと言わんが為の証拠で)杉ヶ峠の隠し窯のことを指していると言える。
この窯を探っていたのが塩治方で有る。
坂崎に初期五人の奉行があり、その筆頭に三輪弥左衛門と言う侍が居られ当然改易と共に流浪のみに成ったはずだ。
奉行であるから、当然自家にも雇い入れの侍・足軽が居るはずであろう。
これらを連れて窯の手伝いや口屋の警備に当たれば萩毛利との関係を疑われることなくここでの仕事が出来る。
この三輪弥左衛門家に1630年子供が生まれた。
処が、この頃から、口屋に掛かる不穏な空気が漂い始めるのである。
塩治方は、ここが多湖主水方による不正の証拠の証であるとして押し寄せた事が1632年6月7日であろう。
この中川元任が、1632年6月7日に死亡しているのである。
この時この場所は、血なまぐさい戦場となり、三輪弥左衛門方も命を落としたか、ここを引き払わなくては成らなくなった時殺されたか。
毛利は、この後ここを引き払い萩へと帰って行った。
李郎子は子供が出来なかったことが幸いしたのか養子を取っている。
わずか2・3才の三輪弥左衛門の子供は、李郎子の養子と言うことで萩へと連れ帰り赤穴内蔵助の養子となり、生涯焼き物師として名声を博するようになる三輪休雪利定である。後年赤穴家から、三輪に改名しているのは赤穴内蔵助が盲目になり琵琶法師になって出て行った後のことであろう。
毛利に連れ帰られた李郎子は、その後柿木村で窯をつき焼き物を焼いているが、同時に萩で登場する名前は、赤穴内蔵助としてである。
何故か、この赤名内蔵助は、宍戸元続の質として連れ帰られた朝鮮の陶工の子供として萩に登場するのである。
毛利の焼き物に関して言えば、相当陶工を優遇したことが伺える。
李郎子は、赤名内蔵助として名家の名を与え萩に小丸山窯を与え、さも独立したかのように装っている。
しかし、実態は隠し窯の頭領として柿木と萩を往復している。
赤穴久内元寄は、宍戸元続の配下に属し吉見と共に蔚山に駐留した武将であり、1597年12月22日の戦いでは、斉藤一郎左衛門と共に戦った戦友である。
当然その時の捕虜のことも知っている中である。
その為に大組の赤名久内元寄を毛利輝元は1599年12月1日中川元任に名字改めを言い渡している。
中川は、江戸詰めの奉行と言うことになっているが、柿木に常に内蔵助と共に行動した人物であろう。
窯を焚くと言うことは、木を切り出し、それを割り1年は乾かさなければならない。
又、土を掘り出し水で精製し何度も何度も繰り返し純度の高い粘土を作り出さなければ焼き物は出来ないのであるから、そこに働く手元職人が必要になってくる。
おそらく初期は、萩の方から雇い入れたのであろうが、1617年の坂崎家の改易によりその家来が雇い入れられたと考えられる。
塩治騒動で、口屋(隠し関所)が椛谷に出来銅山が有ると言っていることがその証である。
何故か、椛谷には、津和野藩資料に銅山など無いからである。
これは、(幕府のねつ造を毛利にあえて知って居るぞと言わんが為の証拠で)杉ヶ峠の隠し窯のことを指していると言える。
この窯を探っていたのが塩治方で有る。
坂崎に初期五人の奉行があり、その筆頭に三輪弥左衛門と言う侍が居られ当然改易と共に流浪のみに成ったはずだ。
奉行であるから、当然自家にも雇い入れの侍・足軽が居るはずであろう。
これらを連れて窯の手伝いや口屋の警備に当たれば萩毛利との関係を疑われることなくここでの仕事が出来る。
この三輪弥左衛門家に1630年子供が生まれた。
処が、この頃から、口屋に掛かる不穏な空気が漂い始めるのである。
塩治方は、ここが多湖主水方による不正の証拠の証であるとして押し寄せた事が1632年6月7日であろう。
この中川元任が、1632年6月7日に死亡しているのである。
この時この場所は、血なまぐさい戦場となり、三輪弥左衛門方も命を落としたか、ここを引き払わなくては成らなくなった時殺されたか。
毛利は、この後ここを引き払い萩へと帰って行った。
李郎子は子供が出来なかったことが幸いしたのか養子を取っている。
わずか2・3才の三輪弥左衛門の子供は、李郎子の養子と言うことで萩へと連れ帰り赤穴内蔵助の養子となり、生涯焼き物師として名声を博するようになる三輪休雪利定である。後年赤穴家から、三輪に改名しているのは赤穴内蔵助が盲目になり琵琶法師になって出て行った後のことであろう。
李郎子05
李郎子05
再び李郎子は、柿木に登場する。
年負え乞食然として、地元の民家に食事を貰いに出てくるようになった。
しかし、地元の人が養ったとは、言われない。
人間は、毎日食事をしなければ生きていけない。
これは、何か別の目的で、村に存在を示したことと思われる。
それは、何であろうか。
参勤交代が、1635年より始まり各地より各藩の主君や家臣が江戸に集まるようになり、その折、柿木がある亀井藩や、かっての領主毛利藩に淺野家より問い合わせが来たことにより一計が画されたことからであろう。
かって一緒に捕虜となり、日本に連れ帰られた武琳降が、探していることが分かったため、年負えて柿木に身を晒すことが武琳降に逢えると言われ独り佇んだことと推察できます。そこには、藩命もあり佇んだことでしょう。
その生活ぶりは、陰の者が支えて生活できたものと考えられます。
何故なら、独り年負えて生活できるような所ではないからです。
後年そこに開拓に入った人がもの原から焼き物の欠片が多く出て畑にならなかったと言っているのが確認されています。
誰かが食料を運び込まなければ、生きていけないところなのです。
そこに佇むには、別の力が加わってこそ独り生活することが出来る場所なのです。
李郎子は、何時か武琳降が尋ね来る事を待ちわびたことでしょう。
この時作られたと思われる窯後が、最初の窯後の手前にあります。
3連ぐらいの窯で、焼いたのかどうか分からない小さな窯です。
もう焼く必要が無い故、形のみ有れば良い窯で有ったと思われます。
何故かと言えば、地元にこの窯で焼かれたという品物が無いのです。
若い頃の製品は、皆大阪に運ばれ地元に渡ることがなかったのは理解できますが、年負えての仕事は、遊び仕事でしょうから、地元にあっても可笑しくはありません。
しかし、その品物が無いのです。
と言うことは、窯はほとんど焚かれることなく形のみでよかったのでしょう。
誰言うともなく唐人屋という言葉が出てくるようになり亀井藩ではその事を淺野の殿様に伝えたことと思われます。
しかし、後年李郎子が死んで100年もの後武琳降の子孫が尋ね来たことはもう李郎子は知り得ません。
待ち焦がれた李郎子が哀れでならないのは、私だけではないと思われます。
再び李郎子は、柿木に登場する。
年負え乞食然として、地元の民家に食事を貰いに出てくるようになった。
しかし、地元の人が養ったとは、言われない。
人間は、毎日食事をしなければ生きていけない。
これは、何か別の目的で、村に存在を示したことと思われる。
それは、何であろうか。
参勤交代が、1635年より始まり各地より各藩の主君や家臣が江戸に集まるようになり、その折、柿木がある亀井藩や、かっての領主毛利藩に淺野家より問い合わせが来たことにより一計が画されたことからであろう。
かって一緒に捕虜となり、日本に連れ帰られた武琳降が、探していることが分かったため、年負えて柿木に身を晒すことが武琳降に逢えると言われ独り佇んだことと推察できます。そこには、藩命もあり佇んだことでしょう。
その生活ぶりは、陰の者が支えて生活できたものと考えられます。
何故なら、独り年負えて生活できるような所ではないからです。
後年そこに開拓に入った人がもの原から焼き物の欠片が多く出て畑にならなかったと言っているのが確認されています。
誰かが食料を運び込まなければ、生きていけないところなのです。
そこに佇むには、別の力が加わってこそ独り生活することが出来る場所なのです。
李郎子は、何時か武琳降が尋ね来る事を待ちわびたことでしょう。
この時作られたと思われる窯後が、最初の窯後の手前にあります。
3連ぐらいの窯で、焼いたのかどうか分からない小さな窯です。
もう焼く必要が無い故、形のみ有れば良い窯で有ったと思われます。
何故かと言えば、地元にこの窯で焼かれたという品物が無いのです。
若い頃の製品は、皆大阪に運ばれ地元に渡ることがなかったのは理解できますが、年負えての仕事は、遊び仕事でしょうから、地元にあっても可笑しくはありません。
しかし、その品物が無いのです。
と言うことは、窯はほとんど焚かれることなく形のみでよかったのでしょう。
誰言うともなく唐人屋という言葉が出てくるようになり亀井藩ではその事を淺野の殿様に伝えたことと思われます。
しかし、後年李郎子が死んで100年もの後武琳降の子孫が尋ね来たことはもう李郎子は知り得ません。
待ち焦がれた李郎子が哀れでならないのは、私だけではないと思われます。
李郎子06
李郎子06
武琳降は、淺野の家臣岡野弥右衛門の質となり後武林唯左衛門と日本名で名乗っています。
その孫が、忠臣蔵の四十七士の内にある岡林唯七その人です。
生前子供に一族の内一緒に捕虜になった李郎子は、吉見の家臣斉藤市郎左衛門の質となり柿木村で焼き物などをしていると聞かされた事をその娘が語っています。
即ち、年負えての姿が聞かされているのです。
若い時の姿は語られていません。
又、その時娘は、子孫など居ないか尋ねています。
しかし地元の人が語るには、一代限りの人であって子孫など居なかったことを伝えています。
墓も焼き物の欠片の上に土盛りしてある姿が語られています。
しかし、後に李郎子の墓が出来、その横に子孫の墓が出来るに及んで、養子を取ったことに話が変わってきたのです。
又、墓も土盛りから、立派な石の墓に代わってきています。
誰がこのような墓を建てたのでしょうか。
地元の人が建てたのであろうと言われていますが、まずその様なことはあり得ません。
昔墓を建てられるようになったのは、1700年以降です。
まして、墓を建てると言うことは、家を造る費用の半分ぐらい掛かっていましたから、他人にその様な費用をかける人はいません。
毛利藩が建てる事はまずあり得ません。
何故なら、毛利との関係がばれてしまいます。
ここは、隠し窯なのです。
岡林唯七の娘が、1752年に来た時には、石の墓は有りませんから、その後出来ています。1764年に萩藩が各窯元の家伝書を提出させています。
何故、その様なことをさせたのか疑問ですが、三輪家では、その時五代目当主が当たっています。
おそらく、岡林唯七の娘が現れ李郎子の事が萩藩に伝わり藩より二人と路銀を付けて江戸まで、その娘を送り届けています。
この事が、各窯元に家伝書の提出に繋がったことではないかと考えるのですが。
そして、三輪家の初代が柿木に居ることを知った五代は、初代利定と共に墓を建てたのでしょう。
岡林唯七の娘が子孫のことを地元の老人に尋ねたとき子孫は居ないと言っていますから、墓が出来て初めて養子のことが分かったのです。
問題は、その戒名です。
赤穴内蔵助の戒名が久我禅定門と書かれています。
赤穴久内元寄の名前を李郎子は戴いているため、道号の久内は赤穴のことです。
だから、久内の久を我の前に付けて久内は我なりと書かれた戒名です。
即ち、赤穴内蔵助と言うことになります。
又、養子は、道達禅定門とあり、これも子孫が、1つの道を究めた事を表す戒名で三輪家初代利定の戒名と考えられます。
しかし、実際の戒名は、分かりませんがここに有る墓は、子孫が、世を忍び作った物ですから、実際よりも的を得た戒名と言わざるを得ません。
武琳降は、淺野の家臣岡野弥右衛門の質となり後武林唯左衛門と日本名で名乗っています。
その孫が、忠臣蔵の四十七士の内にある岡林唯七その人です。
生前子供に一族の内一緒に捕虜になった李郎子は、吉見の家臣斉藤市郎左衛門の質となり柿木村で焼き物などをしていると聞かされた事をその娘が語っています。
即ち、年負えての姿が聞かされているのです。
若い時の姿は語られていません。
又、その時娘は、子孫など居ないか尋ねています。
しかし地元の人が語るには、一代限りの人であって子孫など居なかったことを伝えています。
墓も焼き物の欠片の上に土盛りしてある姿が語られています。
しかし、後に李郎子の墓が出来、その横に子孫の墓が出来るに及んで、養子を取ったことに話が変わってきたのです。
又、墓も土盛りから、立派な石の墓に代わってきています。
誰がこのような墓を建てたのでしょうか。
地元の人が建てたのであろうと言われていますが、まずその様なことはあり得ません。
昔墓を建てられるようになったのは、1700年以降です。
まして、墓を建てると言うことは、家を造る費用の半分ぐらい掛かっていましたから、他人にその様な費用をかける人はいません。
毛利藩が建てる事はまずあり得ません。
何故なら、毛利との関係がばれてしまいます。
ここは、隠し窯なのです。
岡林唯七の娘が、1752年に来た時には、石の墓は有りませんから、その後出来ています。1764年に萩藩が各窯元の家伝書を提出させています。
何故、その様なことをさせたのか疑問ですが、三輪家では、その時五代目当主が当たっています。
おそらく、岡林唯七の娘が現れ李郎子の事が萩藩に伝わり藩より二人と路銀を付けて江戸まで、その娘を送り届けています。
この事が、各窯元に家伝書の提出に繋がったことではないかと考えるのですが。
そして、三輪家の初代が柿木に居ることを知った五代は、初代利定と共に墓を建てたのでしょう。
岡林唯七の娘が子孫のことを地元の老人に尋ねたとき子孫は居ないと言っていますから、墓が出来て初めて養子のことが分かったのです。
問題は、その戒名です。
赤穴内蔵助の戒名が久我禅定門と書かれています。
赤穴久内元寄の名前を李郎子は戴いているため、道号の久内は赤穴のことです。
だから、久内の久を我の前に付けて久内は我なりと書かれた戒名です。
即ち、赤穴内蔵助と言うことになります。
又、養子は、道達禅定門とあり、これも子孫が、1つの道を究めた事を表す戒名で三輪家初代利定の戒名と考えられます。
しかし、実際の戒名は、分かりませんがここに有る墓は、子孫が、世を忍び作った物ですから、実際よりも的を得た戒名と言わざるを得ません。
李郎子07
李郎子07
道達禅定門の死亡年月日が、1706年12月28日となっています。
三輪家が出した、家伝書には、利定の死亡年月日は、1705年12月3日76才と書かれています。
1年後に死亡した様にこの墓には書かれていますが、12月に死んだことは同じです。
本当のことが書けなくせめて1年後の死亡にして書いたのも本当のことが言えない家系の悲しさが伺えます。
毛利藩と李郎子とが繋がりがあっては成らない時代の悲しい出来事が伺えます。
しかし五代は、少なくても李郎子と利定を一緒に葬ることで李郎子に対して感謝の念を標したのでしょう。
後年学実調査と言うことで利定の墓は掘られたそうですが、骨は出なかったそうです。
墓のみを建てただけですから出るわけはありません。
萩に実際の墓は有るわけですから。
もう一つ疑問が出てきますのは、李郎子は、誰が葬ったのでしょうか。
これが、大きな謎です。
食料を運ぶ陰の者が居た証がこの李郎子の埋葬に関係していると考えると理解できやはり陰の者が存在していたことの証明と言えます。
毛利藩は、どんなことがあっても李郎子を自分たちの質として柿木には出していません。
何故か、彼が作った製品は、中国製として、捌かれた可能性があります。
ルソン壺が、小便壺であったことが分かり大切にしていた各大名はその憤りを秀吉に詰め寄り商人は、日本からベトナムに逃れた経緯があります。
毛利が作って捌いた品物が、中国製であるためには、李郎子は出ては成らない存在なのです。
又、年負えて焼くこともままならない状態であったと言わざるを得ません。
全てが闇の中でおこなわれた毛利藩の防長二州に収束した結果その再生に関与した事柄だったのではないでしょうか。
今残る李郎子の壺が津和野に1つだけ有ります。
毅然とした作りは、景徳鎮窯の後期の様相をしています。
朝鮮の焼き物と少し違います。
この焼き物が、何故あるのか、今は分かりません。
しかし、初期坂崎が改易になっていますから、そこから出てきた品物と言うことも考えられます。
全てが推測の領域ですが、辻褄が合うので、あながちそう違わないのではないでしょうか。
武淋降のひ孫が残した実話は、余りにも多くの謎を残し、それを繕う陰の存在が見え隠れして成りません。
真実は、李郎子が連れ帰られたこと・柿木に窯が出来て数多くの製品が出来た証拠があること・その時期陶工は、捨て置かれるほど無碍にされていなく大切な産業であったこと・どれをとっても独りであの柿木に存在することは出来なく、かなり大きな力が加わってこそ出来る産業形態と考えられます。
李郎子の製品が中国製品と同一であったのがこれほどまで隠さなくては成らない結果になったのでしょう。
今も続く三輪家は、やはり名家です。
李郎子の残した足跡は、偉大と言わざるを得ません。
何がここまで違うのか、安土桃山時代の朝鮮の井戸茶碗が朝鮮の焼き物であることはほとんどの日本人が知っていますが、それより前の焼き物は皆中国の磁器です。
磁器のような陶器を作った李郎子は、今も生きているのでしょう。
道達禅定門の死亡年月日が、1706年12月28日となっています。
三輪家が出した、家伝書には、利定の死亡年月日は、1705年12月3日76才と書かれています。
1年後に死亡した様にこの墓には書かれていますが、12月に死んだことは同じです。
本当のことが書けなくせめて1年後の死亡にして書いたのも本当のことが言えない家系の悲しさが伺えます。
毛利藩と李郎子とが繋がりがあっては成らない時代の悲しい出来事が伺えます。
しかし五代は、少なくても李郎子と利定を一緒に葬ることで李郎子に対して感謝の念を標したのでしょう。
後年学実調査と言うことで利定の墓は掘られたそうですが、骨は出なかったそうです。
墓のみを建てただけですから出るわけはありません。
萩に実際の墓は有るわけですから。
もう一つ疑問が出てきますのは、李郎子は、誰が葬ったのでしょうか。
これが、大きな謎です。
食料を運ぶ陰の者が居た証がこの李郎子の埋葬に関係していると考えると理解できやはり陰の者が存在していたことの証明と言えます。
毛利藩は、どんなことがあっても李郎子を自分たちの質として柿木には出していません。
何故か、彼が作った製品は、中国製として、捌かれた可能性があります。
ルソン壺が、小便壺であったことが分かり大切にしていた各大名はその憤りを秀吉に詰め寄り商人は、日本からベトナムに逃れた経緯があります。
毛利が作って捌いた品物が、中国製であるためには、李郎子は出ては成らない存在なのです。
又、年負えて焼くこともままならない状態であったと言わざるを得ません。
全てが闇の中でおこなわれた毛利藩の防長二州に収束した結果その再生に関与した事柄だったのではないでしょうか。
今残る李郎子の壺が津和野に1つだけ有ります。
毅然とした作りは、景徳鎮窯の後期の様相をしています。
朝鮮の焼き物と少し違います。
この焼き物が、何故あるのか、今は分かりません。
しかし、初期坂崎が改易になっていますから、そこから出てきた品物と言うことも考えられます。
全てが推測の領域ですが、辻褄が合うので、あながちそう違わないのではないでしょうか。
武淋降のひ孫が残した実話は、余りにも多くの謎を残し、それを繕う陰の存在が見え隠れして成りません。
真実は、李郎子が連れ帰られたこと・柿木に窯が出来て数多くの製品が出来た証拠があること・その時期陶工は、捨て置かれるほど無碍にされていなく大切な産業であったこと・どれをとっても独りであの柿木に存在することは出来なく、かなり大きな力が加わってこそ出来る産業形態と考えられます。
李郎子の製品が中国製品と同一であったのがこれほどまで隠さなくては成らない結果になったのでしょう。
今も続く三輪家は、やはり名家です。
李郎子の残した足跡は、偉大と言わざるを得ません。
何がここまで違うのか、安土桃山時代の朝鮮の井戸茶碗が朝鮮の焼き物であることはほとんどの日本人が知っていますが、それより前の焼き物は皆中国の磁器です。
磁器のような陶器を作った李郎子は、今も生きているのでしょう。